「良き隣人」・寛容な県民にも変化が
しっかりと聞け県民の痛み
あらためて、寛容な県民性だと思う。われわれだけでなく、ここに駐留する米軍自体もそう思っているだろうし、こういう“良き隣人”を持った幸せを、つくづく感じているに違いない。
住宅地域の上空を、騒音をまき散らしながら、ヘリコプターで我が物顔で飛び交った揚げ句、大学構内に墜落。しかも、その周辺は多くの住民が隣接して住んでいる。「一歩間違えば…」は、幾度も使ってきたが、今回もまた大惨事と紙一重だった。飛び散った破片で、コンクリートの壁やバイクなどが破壊された現場を見れば、被害がこの程度に収まったのは、幾つもの幸運が重なった結果だったとしか思えない。
そんな大事故を起こしながら、米軍は「基地管理権」の及ばないはずの事故現場を、勝手に立ち入り禁止にするし、沖縄県警の現場検証すら認めない。もちろん、「飛行中止」の要請などかまわず、事故後八日目には飛行再開だ。非常識である。一応、事故後に米軍幹部が県庁を訪れはしたが、これとて、いつもの形式的謝罪と、過去一度も守られたためしがない再発防止の約束だけだ。
米兵の”安全保障” こういう仕打ちを受けた場合、どこの国の国民でも怒りしか生まれない。われわれ沖縄県民も、米軍にはそんな感情しか持てない。県民の怒りが、極限近くまで来ていることは米軍も認識しているものと思う。
そうではあるが、われわれはまだ寛容だ。軍服を脱いだ者には、その怒りを向けることはない。例えば、県内各地で盛んに行われている祭りやイベントには、事故後も「私服の米軍構成員」との“交流”が当たり前の光景としてある。米軍も立ち入り禁止にしない。怒りがあっても、安全が保障されている。
もし、東京や神奈川、あるいは他の国の住民地域で墜落事故を起こしながら、勝手に一帯を封鎖して、警察の立ち入りを拒否した場合、同様に自由な行動が保障されるだろうか。幾度も繰り返す沖縄と違い、たった一度の事故であっても、米兵の行動は制限されるに違いない。
その違いは、県民が「反基地」ではあっても、「反米」ではないことを示している。
それは、「万国津梁」の時代から、海の向こうから来た民への接し方を受け継いでいるからかもしれない。
また、軍政で住民の権利が圧迫もされたが、半面、民主主義を教えてくれた復帰前の評価もあるからかもしれない。その時代、米国留学を経験した県内各界の指導者たちを通じ、本来の民主主義のあり方を、多くの県民は知ることができた。だから、それぞれが自分の意見を持ち、表現し、互いに尊重しながら意見を交わすことが、民主主義社会を前進させるということも知っている。
残念ながら復帰前、直接伝えていた基地に対する県民の意見も、復帰後、日本政府を通して間接的に伝わるようになった。これは県民に不幸なことだった。なぜならば、対等に意見を交わすことより、「追従」に居心地の良さを感じる人たちによって、「誤ったメッセージ」が届けられている可能性が強いからだ。
安保の負担平等に
このままでは、われわれの基地への怒りは増大するばかりだ。
だから、寛容な県民に変化が表れている。かつて、「基地撤去」は叫んでも、県外他地域への移設だけは言わなかった。なぜならば、県民の不幸を、そのまま他に担わすという安易な策を望まなかったからだ。
だが、もう違う。多くの国民が重要だという「日米安保」なのに、その負担を沖縄県民だけで背負うのは不平等だ―という考えが増えてきた。本社が事故後行った緊急アンケートでも、再発防止策として、42%の人が「国外・県外への移転」を求めている。その数は時間の経過とともに、増え続けるはずだ。
だから、われわれの“良き隣人”ぶりが、将来とも保障されるとは限らない。もちろん、暴力による解決は、県民の選択肢の外だ。だが、幸をもたらした「万国津梁」の時代の来訪者と違い、不幸だけしかもたらさない「招かれざる客」には、それなりの接し方に改めねばなるまい。
もし、われわれに、将来とも“良き隣人”であることを望むのなら、県民のうめき声に敏感に反応し、その痛みをやわらげるための努力が必要だ。民主主義に未熟な役人を間に置いては、あちらこちらでうめく県民の声は聞き取れない。このままでは、国内で最も多く米国への「理解者」が存在する地域に、逆に不信感を募らせてしまう。これは不幸だ。
われわれだけでなく、互いが“良き隣人”であることを望みたい。そういう両者の関係になった時に、われわれの誇りとする来訪者への寛容さも失わないですむからだ。