2004年10月26日

転載/明治憲法の立憲思想

個人と国家―今なぜ立憲主義か 集英社新書
樋口 陽一 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087200671/qid=1098711179/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-2554696-8809803
個人と国家

以前、転載/戦前にも信念を貫く人々はいたというエントリーで取り上げた本ですが、こんな一節がありました。他にも気になる文章がありますがまたの機会に拾い出してみます。

(74ページ)
明治憲法の立憲思想
帝国憲法ができたのが明治22年(1889年)ですから、明治維新からも20年以上もたっています。安政条約の1858年から考えれば30年たっている。この30年間は、非常にいろいろな可能性を持った時期だったということを、何回でも振り返ってみてもいいのではないか。いろんな民間憲法案にそれは表れています。結局「大日本帝国憲法」は、そういう下からの民間憲法案を押しつぶす形で、上から「欽定憲法」として授けられることになるのですけれども、その場合に、その指導者たちですら、憲法をつくることの意味に決して鈍感ではなかった。
伊藤博文がすでに「そもそも憲法を創設するの精神は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保護するにあり」と言っています。君主の権利を制限する。それと裏腹で、臣民たりといえども-----ご存知のように、明治憲法は人権という観念は認めないわけですけれども-----権利を持つ。「立憲」という言葉の意味がそれとしてきちんと理解されていたのです。
それから100年以上たった今、有力政治家たちが気軽に「日本国憲法」の問題点の一つとして、第3章の「国民の権利及び義務」、第10条から40条までを見ると義務の数がえらく少ない、権利に重く義務に軽い、ということを繰り返し言っています。これは110年前の伊藤博文以前の感覚に戻っているのではないでしょうか。
下からの憲法をつくろうという民間の要素があり、それを押さえつける形で帝国憲法をつくった指導者ですら、憲法をつくるからには主権者である天皇の君権すら制限するのだ、そしてその分臣民の権利を確保するのだということをきちんとわきまえていた。

※こうした古くから培われてきた思想や、その後の数々の紆余曲折が「日本国憲法起草」のバックボーンとしてあるのであり、決して「押し付け」ではないという筆者の主張
posted by PPFV at 00:13| Comment(1) | TrackBack(0) | ニュース拾読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする