ルポ戦争協力拒否 吉田敏浩著 岩波新書
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0501/sin_k211.html
200ページより引用。
犠牲の上の「国益」
戦争が、武力行使が、米軍の空爆がnecessary costやcollateral damageという言葉に象徴される論理でおこなわれている現実がある。そして、こうした論理を認める風潮がアメリカや日本の社会にも浸透しているのではないか。
たとえば、アメリカでは2004年の大統領選をめぐって「セキュリティママ」と呼ばれる主婦層の動向が注目された。彼女たちの最大の関心事は夫や子どもをいかにテロから守るかで、9.11同時多発テロをきっかけに安全を最優先するようになった。「セキュリティママ」のなかには、「対テロ戦争」の最高司令官としてブッシュ大統領積極支持派が目立つ。ブッシュ大統領を「タリバンやフセインの脅威を取り除いた」と称賛する母親グループのウェブサイトもある(『朝日新聞』2004年9月24日)。
このように「タリバンやフセインの脅威を取り除いた」とブッシュ大統領を称賛するのは、米軍のアフガニスタン・イラク攻撃を肯定し、支持することだ。それは、米軍の爆弾やミサイルなどでアフガンやイラクの子どもたちが大勢殺されても、necessary cost(やむをえない犠牲)だから仕方ないとして、武力行使を正当化することにほかならない。
しかしそれは、自分の子どもの命を守るために、「対テロ戦争」の名のもと他国の子どもたちの命が失われてもやむをえない、という血塗られた論理である。自分が直接手を下さなくても、他国の母親から子どもの命を奪うのを容認していることになる。他国の人々の生命を自分たちの安全のためのコストと見なすようなその考え方は歪んでおり、あまりにも非人間的ではないか。
日本社会において、小泉首相をはじめとするアメリカ支持派も、対北朝鮮や石油の安定供給という「国益」のためにイラク戦争を支持するという日米同盟支持派も、イラクで多くの民間人が米軍に殺されている現状を(やむをえない犠牲)として容認している。それもやはり、他国の人々の生命を「国益」のためのコストと見なすような歪んだ非人間的な考え方である。
バグダッドでnecessary costと発言した米兵だが、彼はその後どうなったのだろう。戦死や負傷もせずに帰れただろうか。イラクで米兵の死傷者も増え続けている。米政府・米軍の高官の視点から見れば、死傷した米兵もまた戦争遂行のnecessary costとして位置づけられている。兵士は軍隊組織の歯車、軍事作戦の駒、戦争の消耗品として扱われるのが古今東西の戦争の現実である。国家によって兵士は人的資源として動員され、コストとして使い捨てられる。
そして、necessary cost視される兵士が、同じようにnecessary cost視される他国の民衆の命を奪っているという構図がある。その背後で命令を下す政治家たちは野望を満たし、将軍らは勲章を手にし、高級官僚は出世し、軍の仕事を請け負う企業や財界人は利益を得ている。米軍の兵站支援とイラク復興事業を請け負うケロッグ社やハリバートン社と関係の深い、チェイニー副大統領のような「一人二役」の例もある。これが戦争の醜い構造・からくりだ。
しかし、為政者にとって、自軍の兵士の死が戦争のコストだとあからさまに口にするわけにはいかない。それでは軍人とその家族・遺族の納得、国民の戦争支持は得られないからだ。戦争の醜い構造・からくりを覆い隠す必要がある。では、どうずるのか。兵士の死は「国のために命を捧げた尊い犠牲」と置き換えるのである。英語で言えばsacrificeである。
それは論理のすり替え、一種のシンボル操作だ。遺族を招いて厳粛な軍葬や国葬がおこなわれる。戦死者は「英霊」として称えられ、葬られ、祀られる。慰霊碑がつくられ、追悼式典も催される。愛国心が喚起される。これが戦争のもうひとつのからくりだ。そのため、兵士が自らもnecessary cost視される存在だと事の本質を見抜くのは容易ではない。
この文章を読んで「靖国」を想起するのは私だけではないでしょう。小泉氏が「靖国」に並々ならぬこだわりを見せるのも無理はありません。