http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050603ig90.htm
もう靖国を利用するのは無理な情勢と悟ったと見える。しかし「国立追悼施設」なら良いのか???疑ってかかるべき問題を示してくれる『読売』は便利なメディアではある。
国立追悼施設に反対する宗教者ネットワーク
http://joho.easter.ne.jp/
国立追悼施設に反対する宗教者ネット 設立宣言
http://joho.easter.ne.jp/setsuritsu.html
新たな国立追悼施設は「無宗教」形式をとるといいますが、本質としては靖国と何らかわらないものです。国家による追悼施設の新設は、何者にも介入されてはならない個人の「生き死に」の意味づけを再び国家に委ねてしまうことに他ならないからです。これはまた、国家が「敬意と感謝」をもって「追悼」し、戦死者遺族に国立の「慰霊・追悼の場」を提供することで、「戦死しても国家がきっちり敬意と感謝をもって追悼してくれる」という、欺瞞に満ちた「精神的補償」を与えるものであり、本来、国家がなすべき「謝罪と補償」といった戦死者とその遺族に対する責任をあいまいにするものです。さらには、有事法制の発動によって想定される、新たな戦争犠牲者の受け皿整備が国立追悼施設構想の主目的であることは、この構想が浮上した政治的経緯や官房長官の私的懇談会の議事要旨を見れば明白です。
このことについては、高橋哲哉氏も著書「靖国問題」『第五章 国立追悼施設の問題―問われるべきは何か』として的確に言及している。
書評『靖国問題』高橋哲哉より(評者:木村奈保子)
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/yasukuni_mondai.htm
最後に国立追悼施設の問題が示される。靖国神社に替わる無宗教の追悼施設が構想されている。この施設では、これまで批判の的となってきた宗教性を取り払い、追悼の対象に自国の軍人の戦死者だけでなく民間の戦争被害者や外国の将兵や民間人を含むということになっている。これは、中国政府や韓国政府によってこれまでのところ好意的にみなされている案であるだけに、靖国問題をねじ曲げる危険性がいっそう高いとして、著者は警鐘を鳴らしている。
こうした新しい施設の設置を構想して2001年12月に福田官房長官の私的諮問機関として設置された「追悼懇」の報告書では、なんと平和憲法が「第二の靖国の論理」のためのアリバイ作りに利用されてしまっているのである。
「この施設は、日本に近代国家が成立した明治維新以降に日本の関わった戦争における死没者、及び戦後は、日本の平和と独立を守り国の安全を保つための活動や日本の関わる国際平和のための活動における死没者を追悼し、戦争の惨禍に思いを致して不戦の誓いを新たにし、日本及び世界の平和を祈念するための国立の無宗教の施設である。」
「戦後について言えば、日本は日本国憲法により不戦の誓いを行っており、日本が戦争することは理論的にはあり得ないから、このような戦後の日本にとって、日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をしたものの中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない。」
たとえば、北朝鮮の「不審船」とされる艦艇を発見した海上保安庁の巡視船が、その艦艇を銃撃したところ、「不審船」は沈没してその乗務員が全員死亡した場合、海上保安庁側に死者が出れば、追悼の対象となるが、「不審船」乗務員は、追悼の対象から排除される。あるいは、イラクで自衛隊が武装ゲリラと交戦し、双方に死者が出た場合、自衛隊の死者は追悼の対象となるが、イラクの武装ゲリラの死者は追悼の対象から排除される。
「驚くべき事態である。『過去に日本が起こした戦争』については日本人の死没者も外国人の死没者も区別なく追悼対象にする新たな追悼施設は、『戦後』の武力行使については、日本人の死没者だけを追悼対象にするのであって、外国人の死没者は追悼対象から排除される。なぜなら、日本人の死没者は、『日本の平和と独立を守り国の安全を保つため』であったり、『日本の関わる国際平和のため』であったり、正しい武力行為の死没者であるが、外国人の死没者は、『日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する』正しくない武力行使の死没者だからだ。」
「靖国神社には『韓国暴徒鎮圧事件』の死没者、台湾における『擾乱鎮圧討伐』の死没者、満州における『匪賊及び不逞鮮人』『討伐』の死没者などがたびたび合祀された。日本軍のこれらの活動は当時も『戦争』ではなく、日本帝国あるいは日本の傀儡国家『満州国』の『平和』や『独立』や『安全』を守るための活動とされたのであり、まさに『対テロ活動』とされたのであった。」
「今後、憲法第九条二項を改定して、『自衛隊の保持』や『集団的自衛権』を認め、どれだけ本格的な武力行使を行うようになっても、それは『国際貢献』であったり、『対テロ活動』であったりするかもしれないが、『戦争』ではない。こうして『不戦の誓い』のもとで、事実上あらゆる戦争が日本国家によって正当化されていくおそれがある。」
これは今に始まったことではなく、戦前もまた、武力行使が正当化されてきたのである。
「国家が国家権力の発動としての武力行使――自衛隊の武力行使はこうしたものだ――の死没者を「無宗教」で「追悼」しようとしたとき、そこに靖国の論理が回帰してきてしまうのは決して偶然ではない。それは、靖国の論理が近代日本の天皇制国家に特殊な要素――とりわけ国家神道的要素――を有している反面、そうした特殊日本的な要素をすべて削ぎ落としてしまえば、そこに残るのは、軍隊を保有し、ありうべき戦争につねに準備を整えているすべての国家に共通の論理に他ならないからである。」
さらにまた著者は、どのような施設を作ろうとも、それがたとえ、靖国のような国家の手による顕彰施設ではなくて、たとえば「平和の礎」のように市民の手による平和のメッセージを込めた施設であっても、いつのまにか国家の政治によって「靖国化」することがありうると警告を発する。