2004年08月01日

被害者の気持ちと加害者の態度

「被害者の気持ち」と「加害者の気持ち」には大きな隔たりがある。

とかくクローズアップされる少年犯罪報道について色々調べる中で
このことを大いに考えさせられたことも大きな収穫です。
加害者は忘れられても、被害者は忘れられない。しかし、被害者が唯一癒されるとしたら、それは賠償額の多寡などではなく、「加害者の気持ち」がどこまで「被害者の気持ち」に近づけるか、あるいは近づけようとする努力が垣間見えるか、ということではないかと思います。

戦争責任に関する日本の態度にも大いに反省すべきところがあります。

晴天背景さんの逆立ちしている脅威論
愛を知らなければさんの水に流せない

日本の再軍備論は「被害者」を前にした「加害者」が仕返しを恐れてナイフを構えるようなものです。「被害者」の気持ちは察するに余りあります。
posted by PPFV at 23:17| Comment(7) | TrackBack(0) | 不定期日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
PPFVさん、こんばんは

私の考えは少し違っています。

被害者が癒される唯一の方法は、「加害者を赦す」ということだと思っています。
「赦す」とは、相手の行ったことを「覆い」「なかったこととして扱うこと」です。

逆に相手の行ったことをいつまでも目に見える状態にしておくことは、自分自身がいつまでもその被害を意識することなのです。
そのたびに苦しみます。癒しはないのです。
もちろん、加害者が真摯に自分の罪を見つめることは一生必要です。そのための社会的な対策が必要です。

しかし「赦し」は、本当に難しい。
いえ、並の人間にはできないのです。

私たちが人を赦すとすれば、そこには、「自分自身も同じように罪を持った人間だ」との認識が必要ではないでしょうか。

「あなた方の中で罪のないものだけがこの者に石を撃て」という言葉は、まさに、赦すために必要な原理なのではないかと思うのです。

本論の主旨と違う意見かもしれませんが、私たちと戦争被害国との関係にも関連することかと思います。
Posted by U2QMS at 2004年08月02日 00:38
U2QMSさん、早速のコメントありがとうございます。

この点は確かにお考え違うようです。

特に命が関わる場合、私は基本的に赦すことはありえないと思っています。ですからせめて「癒される」という言葉を使ったのです。
U2QMSさんが言われる〜相手の行ったことを「覆い」「なかったこととして扱うこと」
こと戦争責任においては、それを加害者が必死になってやっているというのがこの国の現状です。
またドイツなどと違い、自分の罪を見つめるための社会的対策は、私が知る限りなされていません。

一般の犯罪被害についても〜相手の行ったことを「覆い」「なかったこととして扱うこと」〜をもって癒されるとは思いません。
被害者遺族がそのことをきっかけに社会的問題として取り組まれることが多いのも「そのことに真摯に向き合い」「二度と起さないために行動すること」が癒されるための一つの行動であるからと思っています。
Posted by PPFV at 2004年08月02日 01:13
PPFVさん、お返事ありがとうございます。

おっしゃること、よく分かります。
命のことで赦すことは、人間にはできないかもしれません。だから癒されることが難しいのです。そして加害者はずっと苦しむのです。
刑務所で死刑囚のもとに牧師や僧侶がきて、宗教教育をしますが、私はむしろ、加害者にこそ、宗教というものの力を知ってもらうべきだと思っています。

さて、ドイツやアメリカの一部で行われている、「加害者に自分がやったことがどのようなことかを認識させる」という取り組み、これは日本では行われていないと私も思います。

当然私も、「犯罪被害者の救済」について「犯罪」を人くくりにすることは無理があると自覚しています。

「犯罪」を

・命にかかわること=取り返しの付かないこと
・性の尊厳にかかわること=取り返しの付かないこと
・窃盗など不完全でも弁償のできること=取り返しが付くこと
・反省すれば許せること=なかったと認められること

といったように分けて考える必要があるでしょうね。

それと、犯罪被害者救済と防犯は関連性があるかもしれませんね。
Posted by U2QMS at 2004年08月02日 02:23
訂正します。

×しいのです。そして加害者はずっと苦しむのです。

○しいのです。そして被害者はずっと苦しむのです。

またやってしまいました(*_*;。
Posted by U2QMS at 2004年08月02日 02:25
TB、リンクありがとうございました。
PPFVさんのおっしゃるように、被害者の赦しを得るには「被害者の気持ちにどれだけ近づけるか」がポイントだと思います。ただ、犯罪被害者と加害者の関係は、侵略戦争の被害者と加害者との関係とは少し違うように思います。この場合は責任主体の加害者は「国家」だが、実際の加害者は個人で、この二重構造が赦しや癒しを難しくしている。

つまり、実際に手を下した個人は自分のしたことに苦しみ、むしろ被害者の気持ちに近づこうと努力していることが多い(多くの元日本軍兵士が草の根で日中友好に尽力したり、自ら加担した虐殺を証言したりしている)のに「国」が「日本はアジアの国々を植民地支配から解放した、感謝されこそすれ加害者よばわりされる筋合いはない」などと言う。戦争を知らない世代がそれに流される。結果的に「国」は被害者に加え元兵士の癒しさえも阻んでいる。

加害者が「国」というとらえどころの無いものになってしまうことが問題の根源だと思います。PPFVさんが以前書いておられた、その体制下で「利権を得る」者が真の加害者なのですが、それがあいまいなままなのが一番の問題だと思います。
Posted by SIERRA at 2004年08月02日 12:55
9条原理主義のみなさんに一度聞いてみたい疑問がある。
彼らの歴史認識では、大東亜戦争の日本は絶対悪のはず。
極悪日本軍がなんの罪もないアジアの人々を殺しまくった、そういう認識を持っている人が多いだろう。
そこで聞きたいのだが、もし中国の蒋介石が「戦争のできない体制」を作っていれば日本鬼子は侵略してこなかったと考えてるのだろうか。

あるいは、スペインに滅ぼされたインカ帝国。
インカ王アタワルパが「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めていれば、滅ぼされる事はなかったと考えているのだろうか。
余談だが、インカ帝国は9条原理主義者が大好きな「平和的話し合い」で事を治めようとしている。
アタワルパを拉致されたインカ側は、ピサロの要求に従い「部屋を埋める量の黄金」を渡した。
しかし、アタワルパは処刑され、インカ帝国は滅ぼされた。
「侵攻」とか「占領」とか「征服」などという甘っちろいものではない。
ほぼ「絶滅」させられたのだ。

もしかすると、「戦争」でさえなければ「平和」である、と考えているのかもしれない。
愚かな敗北主義者達は「戦争するくらいなら降伏しろ」などと主張している。
それならば、日韓併合について批判できなくなりはしないか。
日本と大韓帝国は戦争などしていない。
日帝の悪政と搾取と文化的圧殺がいくら辛かろうと、「平和」であったのだろう?

それとも、ここで例の「抵抗」が出てくるのだろうか?
「抵抗」運動があったから「平和」ではなかった、などと反論してきそうだ。

つまり、外国による侵略があった場合は、国軍による「戦争」ではなく市民として「抵抗」せよ、と訴えているのか。
義兵として決起し、ゲリラ戦を仕掛けよ、と。
進め一億、火の玉だ、と。
国民皆兵、玉と砕けよ、と。

恐ろしい人たちだなあ。
Posted by 9条原理主義 at 2004年08月02日 20:33
U2QMSさん、SIERRAさん、コメントありがとうございます。

>さて、ドイツやアメリカの一部で行われている、「加害者に自分がやったことがどのようなことかを認識させる」という取り組み、これは日本では行われていないと私も思います。

アメリカで行われているのは一般犯罪における更正プログラムですね。確かテレビでみたことがあります。
戦争責任に関する『社会的対策』はまさかないですよね(^^;;

>当然私も、「犯罪被害者の救済」について「犯罪」を人くくりにすることは無理があると自覚しています。

そうですね。それにSIERRAさんが言われるように戦争犯罪も同じ土俵では語れないですね。

>加害者が「国」というとらえどころの無いものになってしまうことが問題の根源だと思います。PPFVさんが以前書いておられた、その体制下で「利権を得る」者が真の加害者なのですが、それがあいまいなままなのが一番の問題だと思います。

私もそう思います。まさに国としての姿勢は『なかったこと』とするのに汲々としている。少なくとも『認め、謝罪すること』が被害者の気持ちに一歩でも近づくことだと思います。そして並行して被害者としてアメリカの戦争犯罪を追及すべきと思います。
Posted by PPFV at 2004年08月03日 00:27
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