その事は改憲派と呼ばれる方からよく受けるご指摘です。正直、特に「他国からの侵略」に対しては、その具体的なシステム開発というものは私も見えていません。
しかし、長期的な観点から見れば18世紀以降世界は「脱暴力」の方向へ向かっていました(カントの「常備軍廃止論」を受け継いだ日本国憲法第9条もそのひとつ)。向かっていました・・・と過去形になっているのは、その流れを一気に17世紀に引き戻したのは他ならぬブッシュ率いるアメリカだと思うからです。
とりわけ改憲派の方は、主に近隣諸国(主に中国、北朝鮮)による侵略を脅威と感じておられるようです。当然「攻めてきたらどうする」という国防論、軍事論?という議論になりますし、それを行使できないのは憲法9条という足枷があるからだいうことになります。
一方、護憲派の方は、主にアメリカの一国主義やむしろ国内の問題(政府や軍部の暴走、人権の侵害など要は民主国家の崩壊)について脅威と感じているのではないかと思います。したがって憲法9条が重要な意味を持ってきます。
もちろん人によって脅威と感じる対象の重きの置き方も変わってくるので意見も微妙に違ってくるかもしれませんが、いわゆる護憲派と改憲派の根本的な違いはそこではないかと思っています。
それぞれが、それぞれの土俵で語るので話がかみ合わない(あるいは相容れない)ということが多く見られます。
改憲派から見れば「他国の侵略に無防備な」護憲派は「平和ボケ」ということになりますし、護憲派から見れば「危険なアメリカにくっついて搾取され、国内においては基本的人権さえ脅かされかねない今の状況に気づこうともしない」改憲派は「平和ボケ」ということになります。
それぞれが、それぞれの危機感に基づいてニュースソースに注目します。そして互いのニュースソースには意識してか無意識のうちにか無視あるいは重きを置きません。したがって相手が脅威と思う事象に対しての意見を持ち合わせていないということも多々あります。それがまた意見がかみ合わない現象を助長します。
それでも護憲派ブログの中にも、改憲派の土俵に立って(軍事力に代わる国防という観点から)意見を述べられているところもあります。すばらしい(^^
勘繰り屋
ガンジー思想と9条 / 国際
それぞれが同じく平和を希求していながら、意見を対立させる(あるいはかみ合わない)のは望ましいことではありません。このことを意識すればさらに実のある議論ができそうな気がします。
トラックバックありがとうございました。
自分のところでも同じようなことを書きましたが、改めて書きます。
僕は最近、護憲を主張するのであれば、自分と全く違う意見であろうが、筋の通った意見であれば理解を示すことは絶対必要だと考えるようになりました。
なぜなら9条を堅持し、武装を解くことを主張することは、国家運営にあたって脅威から身を守るという考え方を捨て、脅威の根源を断つという考え方に移行することとたぶん同等です。
そして脅威の根源を断つためには、相手への理解、相手の意見を尊重することが最も重要だと思うからです。
ただ、理解はしますが、自分の意見と違えば反論はします。
理解と同調(あるいは譲歩)は違います。
相手を真っ向から否定しなくとも、議論はできるのです。
対立しながらも冷静に議論を続けることは、戦争の無い世界とある意味で一緒だと思います(ここは僕の妄想)。
ですから僕のブログで議論が続くことは、「戦争の無い世界」が実現可能であることを(単なるブログ上での話ですが)証明することだと思っています。
それは、とても小さなスケールですが、9条の下での国家運営が可能であることの証明です。
これを言っちゃうと改憲派の方々は誰も相手にしてくれなくなりそうですが、本音はコレです。
PPFVさんから見て、僕があえて向こうの土俵に踏み込んでいるように見えるのは、そういうことです。
いくら筋が通っていても、「軍事力が絶対に必要」というひとは、その「必要」を否定するような意見を認めません。
だから、わたしは、これを「宗教」というのです。
本文にある「攻めてきたらどうする」ですが、単純な話です。
殺されそうになったら自分と家族の身を守る。
それには、逃げる隠れるも含まれる。
隣近所で(地域で、ではない)助け合うのは、できる範囲で、したい範囲で。
つまり、ごくごく当たり前の人間としての気持ちで動けばいいのです。
しかし、国家として「防衛戦争」をするのは反対。
国家は、防衛、国防と称して、必ず軍事をいろいろな側面(国家統制、政治のまずさをごまかす、軍事産業とのつながり、などなど)に利用します。
私は、自分のブログでも他でも、何度も「攻めてこられない工夫が必要だ」といっていますが、本当に、これを真剣にだれもいままで考えていないのです。日本に限らず。
必ずでてくるのが「攻めてこられたら困るから軍事防衛」となり、これを否定する材料がない(そう、考えていなかったから材料があるわけがない)から、結局軍事・・・この繰り返しでした。
そしていまもなお、宗教を信じる人たちは、「軍事は絶対に必要」といい、その意見を否定できる合理的な意見を絶対に認めない・・・。
議論のすれ違いは、「軍事は絶対」ということに頑固にこだわり続ける「信仰」にあると思います。
>>それは、とても小さなスケールですが、9条の下での国家運営が可能であることの証明です。
>>これを言っちゃうと改憲派の方々は誰も相手にしてくれなくなりそうですが、本音はコレです。
9条をなくして軍隊を、という人たちが大好きなのは、
「過去、紛争解決は戦争でしてきたから、今後もそうだ」という「過去」ですが、そういう論調が正当なら(少なくとも彼らはその正当性を認めているからこのように発言するのでしょうから)この60年間、国際紛争の解決を軍事力以外で行ってきたのは既に「過去」としてあるわけです。
よってもう十分な「9条の下の国家運営」実績はあるのです。
こういうとすぐに「安保があったから」というおバカさんがでてきます。
しかし、彼らは、考えるべきです。本当に安保が機能したかどうか、を(彼らが好きな「過去」の実績において)。
私は普段「平和の実現のために、過去どうだったか、は関係ない」といいつづけていますが、一方でこうも思います。
「軍事力を必要とする意見については、過去の事例から否定できる」
と。
結局、過去を言い出す人たちは、自分たちの意見、つまり、軍事力がなければ国際紛争が解決しない、という意見に都合がいいから、出してきているだけなのだ、と思います。
>いくら筋が通っていても、「軍事力が絶対に必要」というひとは、その「必要」を否定するような意見を認めません。
>だから、わたしは、これを「宗教」というのです。
僕も宗教みたいなものだと思っています。
でもそれを言うなら、「9条を守れ!」と叫んでる人だって宗教ですよ。
>議論のすれ違いは、「軍事は絶対」ということに頑固にこだわり続ける「信仰」にあると思います。
自分を客観視してみてください。
改憲派の方々も、我々護憲派を同じような目で見ていますよ。
護憲派の9条への信仰のおかげで議論が噛み合わないのだ、とね。
ですがお互いにこんな言い合いをしてみたところで、特に得るものはありません。
エネルギーの浪費です。
>それぞれが同じく平和を希求していながら、意見を対立させる(あるいはかみ合わない)のは望ましいことではありません。このことを意識すればさらに実のある議論ができそうな気がします。
このPPFVさんの言葉は重いです。
おっしゃることの半分は分かります。
しかし、同じような目で彼らが見るのは、彼ら自身が自分の意見を否定する材料について、合理的な判断ができないばかりか、最初から目にしたくない、というのがあるからだと思います。
宗教といったのは、こういうこともあります。
教義がでたらめばかりで、どう考えてもその教義の中で矛盾があるのに、その信者はその宗教の間違いを認めようとはしません。もちろん、破綻が理解できて信仰から抜けるものもいます。
しかし、一方で固く信じたまま信仰を保つ人がいます。
そのような人たちがなぜ信じ続けるか・・・というと、もし、宗教を否定すると、自分が信じていたことを否定することになり、ひいては自分自身の存在を否定しなくてはならなくなる・・・からだと心理学的に言われています。
彼らが、私のような9条を守ろうとする人たちに「信仰のようなものだ」というレッテルを貼るのはいいでしょう。
また、彼らは常にそのようにしますから、これを防ぐ手立てはないでしょう。
そして、対立をさけることも、私は絶対にできないと思います。また対立を避ける必要性も、あまりないと思います。
私が宗教というのは、彼らがそのような信仰を持っていること、そして、信仰というのは他者からの何者をもってしても、変えることはできないということ、そして、間違った宗教から脱退させる方法があるということ・・・これらを意識しての発言です。
信仰を変えようとする(彼らからはそう見える)意見を言う限りは、絶対に対立は起こるのです。
だからこそ、「間違った宗教から脱退させる方法」を参考にする以外は「対立」は避けられないとも思います。
それから、「9条を守ること」は信念です。信念と、信仰は違います。信念には、根拠もあるのですから。
「信じる」とは「合理的根拠がないのに、その存在を認めること」という意味です。
「9条を守ること」の合理的理由と、守り続けることができる合理的理由が、確かに存在するのですから。
それは、彼らの意見によっては否定できていません。