社会問題に首を突っ込む義務 (ビルトッテンコラムOurWorld 2006/5/15)
http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1181941_629.html
※太字は転載者による
企業の経営者でありながら、経済だけでなく政治や、時には社会の問題になぜ首を突っ込むのか、という質問を受けることがあるが、私はサラリーマン、教師、医師、というような職業で行動を色付けすべきではないと思っている。
(ビル・トッテン)
社会問題に首を突っ込む義務
私の職業は、コンピュータのソフトウェアを販売することだが、それと同時にほかの日本人と同じように家族と日本で暮らす一生活者であり、足元は社会制度や政治経済と密接につながっている。民主主義という体制においては、首を突っ込むことはむしろ義務だと感じている。
戦後、日本はあまりにも長い平和を経験してきた。個人の生活においてはもちろんいろいろな出来事に直面しているだろうが、それは生きている限り誰しも皆同じである。日本は戦争、敗戦という非常事態を経て、世界で類をみないほどの奇跡の復興を遂げた。しかしここにきて、さまざまな指標において日本の国民の暮らし向きが悪化し、社会が二極化しつつある。
原因は複合的なものだが、中でも大きなものは教育だと私は思う。日本の教育は伝統的に道徳が基本であり、神道、仏教、武士道、儒教の教えに基づく善悪の区別を教え、日本人は自分たちで国のあり方を決めてきた。それが米国の占領政策によって修身、歴史、地理が一掃され、代わってラジオやテレビ、映画を通じて米国に追随することを教え始めた。
道徳と同じくらい、歴史は大切である。歴史を学ばなければ再び同じ痛みを経験することになる。例えば、今、小泉自民党政権は小さな政府を目指すというが、それはセーフティーネット、社会保障の切り捨てだ。
イギリスの文豪、チャールズ・ディケンズの本を読んだことがある人なら、十九世紀前半のイギリスで一部に富が蓄積される一方、一般の英国民にどのような貧困がもたらされたかを知っているだろう。産業革命によって産業資本家が主導権を握り、資本主義社会が始まった。社会構造は大きく変わり、伝統的な手工業者は工場労働者に、また地主による経営規模の拡大化で多くの農民が農村を離れ、都市に流入して工場労働者となった。
労働者階級が人口の多数を占めるようになったイギリスでは労働者を保護する法律はなかった。低賃金、長時間労働、児童労働と、いま第三世界で問題になっている子供の奴隷化と同じである。それらが改善されたのは十九世紀半ば、社会改良家たちの運動のおかげでようやく繊維工場で九歳以下の少年労働を禁止、十三歳未満の労働時間を一週間四十八時間とするといった法律が施行された。セーフティーネットのない資本主義社会の姿を知りたければディケンズを読むといい。
日本においても長時間労働や低賃金だけでなく、今では当然とされる健康や安全、環境への配慮がなされ始めたのはここ数十年のことである。つまり、日本人が手にしている福利厚生や社会保障は当然の権利ではなく、政治的駆け引きやデモ、そのほかの活動によって労働者が資本家から勝ち得たものだった。歴史を学ぶことはそれを知ることであり、維持するためには何かをしなければいけないことが分かるだろう。政治や社会問題に興味を持つというのはそういうことだ。そして社会保障というセーフティーネットのない資本主義は、弱肉強食のジャングルに、十九世紀の貧困に、退行することなのである。
資本主義がもたらした困窮に対処するために社会主義が生まれたということも歴史を学べばわかるだろう。八時間労働制や有給休暇などが資本主義制度に持ち込まれたのも、多くの社会主義者の骨折りによってである。だからこそ、資本家たちは社会主義や共産主義を目の敵にした。
歴史や古典を学ぶことで、今日、われわれが当然だと思っているすべてのことのほとんどは、長い時間を経て、ようやくもたらされたものだということを認識できる。労働者への保障、環境や健康、さまざまな安全規制、健康保険、生活保護、老齢年金などがなければ、ディケンズと同じような状況に戻らざるを得ないだろう。
これを理解すれば経営者だろうが労働者だろうが、社会や政治の問題に興味を持たずにはいられなくなるはずだ。ニヒリズムを気取って社会や政治に対して傍観者であることは止めたほうがいい。野球やテニスの試合を見るのも楽しいが、実際に自分がプレイすることはもっと面白い。社会とのかかわりも同じである。