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06年12月15日を踏まえて07年という時代を考える
桂 敬 一
06年12月15日、どの新聞もこの日の参院での改正教育基本法案・防衛省昇格法案の成立を、既定の事実のように予想し、報じていた。
納得がいかないので、午後2時半ごろ、新橋から日比谷公園、霞ヶ関を抜けて、国会周辺での反対運動はどうなっているのか、見にいった。それまで出かけられなかったので、気になっていたのだ。
外務省脇の坂になった歩道に時季遅れの銀杏の黄葉が敷き詰められており、きれいだった。議事堂裏に回ってみると、スピーカーの声、日蓮宗独特のうちわ太鼓の音がした。参院議員会館前は座り込みの人たちや幟り旗などで、ある程度活気を感じさせたが、あの広い南北に広がる空間全体は、往事のデモの賑わいを想像させるにはほど遠い雰囲気だった。
何枚かもらったビラの中の全国連絡会のビラが、午後6時からの緊急集会を告げていた。帰宅後、夕方のテレビのニュースで両案の成立を知った。それでもこのなりゆきには納得がいかなかった。
その思いを反芻しながら、12月の北海道新聞のコラムを書いてみた。このようななりゆきの後、私たちは07年をどのように迎え、ぎりぎりまで外堀を埋められた憲法を守っていったらいいのだろうか。 (JCJ会員)
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北海道新聞06年12月29日夕刊「ニュースへの視点」
「戦争への道」のでき方
桂 敬 一
構造化した格差社会がこのまま「平和な社会」としてつづく限り、自分は一生その底辺から抜け出せない。これが戦争で崩壊、流動化してくれれば、水面の上に顔を出すチャンスだって生じる。
希望はもう戦争にしかない―三十一歳のフリーターが月刊誌にこう書いているのを読んだ。ショックだった(赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい」、朝日新聞社『論座』二〇〇七年一月号)。そして実際に戦争への道は、このような若者の期待に応えるためか、着々と敷かれだしている感じだ。
◇ 愛国心教える義務課す
今月十五日に成立した改正教育基本法は事実上、学校に愛国心を教える義務を課した。また、旧教育基本法一〇条(教育行政)では、行政の教育に対する「不当な支配」については、全国民がその排除を正当に求めていける、とする書き方のものだった。
ところが改正法(一六条)では、行政は責任をもって「不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより」教育が行われるように努め、そのための権限を行使する、と読める書き方に変わった。
加えてこの場合の「不当な支配」とは、たとえば日の丸・君が代に反対してきた日教組なども該当し得るという意味のことを、伊吹文明文科相が参院教育基本法特別委員会で示唆したのだ(十一月二十二日)。
これでは教育行政における「不当な支配」の意味は、完全に逆転することになる。
◇ 防衛「省」呆気なく実現
恐ろしいのは教育基本法「改正」のかげで呆気なく実現した防衛省昇格法だ。 それも、この新法のかげですっと実現した自衛隊法「改正」のほうが、怖い。
その三条(自衛隊の任務)は本来任務として「わが国の防衛」のみを示してきたが、今回三条の第二項として「周辺事態への協力」「国際平和協力活動」が新設、追加されたのだ。
これによって、一九九一年の湾岸戦争からイラク戦争にいたる自衛隊の海外におけるすべての活動プラス・アルファが、自衛隊の本来任務とされることになった。狭義の自衛権を逸脱する戦力保持や交戦権を禁じた憲法九条二項が、そのままあるにもかかわらずだ。
そしてもっともっと恐ろしいのが、これだけの戦後政治の重大な路線転換が図られていたのに、メディアがその問題点を、十一月十五日の衆院教育基本法特別委員会における与党単独採決後、参院での成立まで、縦横に報じ、論じてきたかというと、在京の大手メディアに接する限り、とてもそうとはいえないと感じられたことだ。
さすがに成立後、十六日には各紙朝刊も、国会が決めたことの歴史的意味を大きく書き立てた。だが、そりゃ俗にいう喧嘩過ぎての棒千切れじゃないか―間に合ううちになんで国民に大声で注意喚起を繰り返さなかったんだと、前日の午後歩き回った国会前の寂しい光景を、あらためて思い返した。
戦争を求める若者がいる。
彼らの希望に沿い、世の中の流れがそっちに向かって進んでいけば、もうしょうがないのか。メディアもこれからは、その流れに乗って読者・視聴者を開拓、部数や視聴率を伸ばすしかないのか。
本当は、その道が間違いで不幸に行き着くしかないということは、メディアこそ深刻に学んだのではなかったか。
JCJふらっしゅ
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